第5章 絵の具の「沈黙の色」

第5章 絵の具の「沈黙の色」 探偵科学

朝の図工室は、声が大きくなくてもにぎやかだ。
窓から入る光が、机の上の水さしを通って、ゆらゆら揺れる。透明な水の中に、だれかが昨日落とした一滴の色が残っていて、薄い青が、ガラスの底で眠るみたいに広がっていた。

筆洗いバケツの水面は、ほんの少しだけ揺れている。
乾いた紙の匂い、木の机の匂い、絵の具の甘い匂い。
筆先がパレットをこする「さら、さら」という音が、遠くの教室のチャイムと混ざって、映画のBGMみたいに聞こえた。

ぼくと相棒は、図工コーナーの前で立ち止まった。
そこには、みんながよく使う図工コーナーの美術棚がある。絵の具のチューブ、刷毛、スポンジ、紙皿パレット、色紙、のり、はさみ。棚の前に立つと、なんでも作れそうな気がする場所だ。

その棚の前で、図工の先生が、少しだけ困った顔をしていた。怖い顔じゃない。
「困ったなあ」という“考える顔”。

先生は、小さなトレー(浅い箱)を持ち上げた。
「今日の授業は“雨の色”を描くよね。だけど、みんながいちばん使うはずの色が、見当たらないの」

「何色ですか?」相棒が聞く。
先生は、答えを急がず、棚の一段目を見せた。
「青。いつもここにある“青”のチューブが、今朝はないの」

青。
雨の色。空の色。影の色。
それが無いと、絵が急に“黙る”みたいに感じるかもしれない。

近くにいた子が、小さく言った。
「だれか、持っていったのかな……」

その一言で、廊下の掲示板の時みたいに、空気がちょっとだけザワッとした。
でも相棒は、すぐに先生の方を見て、落ち着いた声で言った。

「先生、ぼくたち、探してもいいですか? でも、決めつけないで。事実から」
先生は、ほっとしたようにうなずいた。
「ありがとう。だれかを責めるためじゃなくて、授業をスムーズにしたいの」

ぼくは自分に問いかけた。
(いま、“持っていった”って思った? なんでそう思った?)
思っただけなら推測だ。まず確かめる。

こうして、美術棚の前で「絵の具の“沈黙の色”」の謎が始まった。


観察 ――五感で「いまここにあること」を集める

相棒がメモ帳を出した。
前の事件から、ぼくらは同じやり方を続けている。紙を二つに分けて――

  • 事実(見た・聞いた・確かめた)
  • 推測(〜かもしれない)

「青がない、は事実?」と相棒が先生に確認する。
先生は丁寧に言う。
「“いつもの場所に青がない”は事実。でも、“学校にない”はまだ分からない」

それを聞いて、ぼくも背筋が伸びた。
「ない」と「ここにない」は違う。

ぼくは棚を目で追った。すると、いくつかの“ちいさな差”が見えてきた。

1)絵の具のキャップの乾き具合

棚には赤、黄、緑、黒、白、茶……いろいろなチューブが並ぶ。
その中で、ある水色っぽいチューブのキャップだけ、少し白く粉をふいたみたいに見えた。乾いた絵の具が、キャップのふちにうっすら固まっている。

[手がかり1:絵の具のキャップの乾き具合]
相棒は触らずに顔を近づけて観察し、先生に言った。
「これ、昨日か今朝、使ってそのまま閉めた感じがします。乾いて固まるまで少し時間が要るから、“最近動いた”って分かる」

キャップの乾き具合は、時間の手がかりになる。
新品みたいにきれいなら、最近使っていないかもしれない。
固まりがあるなら、使った可能性が上がる。

2)筆洗いバケツの水位

美術棚の横に、筆洗いバケツが二つ置いてある。
ひとつは「一回目洗い」、もうひとつは「仕上げ洗い」。先生がいつもそうしている。

ぼくはバケツの横に貼られた小さなテープに気づいた。
水位の目印線がある。そこより少しだけ水が多い。

[手がかり2:筆洗いバケツの水位(目印より上)]
ぼくは先生に聞いた。
「先生、この線までって決めてますよね? いま、ちょっと上です」
先生がのぞきこんで、うなずいた。
「本当だ。昨日の放課後に水を捨てて線まで入れたはず。でも今日は多いね」

水位は、だれかが水を足したサインになる。
水を足すのは、筆をたくさん洗ったときや、濁りを薄くしたいときに起こりやすい。

3)棚の端の小さな青い点

そして、ぼくの目が止まったのは、棚のいちばん端。
木の角に、針の先くらいの小さな青い点がついている。

点は一つじゃない。二つ、三つ。
まるで、青が「こっちだよ」と小さく指でたたいたみたいに。

[手がかり3:棚の端の小さな青い点(飛び散り)]
相棒が言った。
「青い点がここにあるってことは、青い絵の具がこの棚の近くで出た可能性が高い。チューブが通ったか、筆先が当たったか」

青は“ない”のに、青の点は“ある”。
それは、動きがあった証拠になりうる。

4)派手な金のラメ

さらに、いかにも目立つものが見つかった。
棚の下段のすき間に、キラキラ光る金色の粒。光を受けて、ちかちかする。

「わっ、ラメ……!」
近くの子が言った。「だれか、こっそりキラキラさせたんじゃない?」

青がない。金がある。
頭の中で、勝手に“ストーリー”が作られそうになる。

でも相棒は、メモにすぐ書いた。
推測:ラメが関係あるかもしれない
そして、口に出して言った。
「ラメがあるのは事実。でも“犯人っぽい”は推測。赤ひげかもしれない」

[赤ひげ(誤った手がかり):派手な金のラメ(犯人っぽく見える)]

観察で集まった事実:

  • “いつもの場所”に青のチューブがない
  • 水色チューブのキャップに乾いた固まりがある
  • 筆洗いバケツの水位が目印より上
  • 棚の端に小さな青い点がある
  • 棚の下に金のラメが落ちている

「次は仮説」
相棒が言った。
ぼくも、自分にもう一度聞いた。
(なぜそう思った? それは事実? それとも想像?)


仮説 ――青は“どこへ行ける”? 一つに決めない

相棒が指を折って、仮説を並べた。
ぼくも横で、追加できるか考える。

  1. 別の場所に置き間違えた(共同制作の箱、別の棚、先生の机など)
  2. 青だけ先に使われて、だれかのパレットやトレーに入ったままになっている
  3. キャップが固まり、開けにくくなって“使えないから別のところへよけた”
  4. 筆洗いの水を替えた人が、ついでに片づけて場所を変えた
  5. だれかが持ち帰った(でも証拠が出るまで保留)

先生も、うなずきながら言った。
「授業の前に準備係が少し触ったかもしれないね。共同制作の材料もこの棚の近くだし」

ぼくは“青い点”を見ながら思う。
青の点があるなら、青はこのあたりを通った可能性が高い。
じゃあ、遠くまで行ってないかもしれない。

「検証しよう。安全に、順番に」
相棒が言った。


検証/確認 ――数える・比べる・聞いて確かめる

1)「いつからない?」を確認する(やさしい聞き取り)

相棒は先生に聞いた。
「先生、昨日の最後の時間は図工でしたか? そのとき青はありました?」
先生は少し考えて、首をかしげた。
「昨日は四年生が図工。私は授業中、青を使ってる子を見た気がする。だから、昨日の時点では“あった可能性”が高い」

“気がする”は推測に近い。
でも先生の見た記憶は、方向を決める助けになる。

次に、ぼくらは準備係の子に聞いた。
責めない言い方で、短く、確かめる質問。

「今朝、棚から絵の具を出した?」
「うん、出した。赤と黄色と黒。青は…見てない」
「棚の近くで水を足した?」
「水は先生が入れると思ってた。ぼくは触ってない」

事実:準備係は青を見ていない(ただし、見落としの可能性は残る)

2)キャップの乾き具合を“比較”する(時間のヒント)

先生の許可をもらって、相棒は問題の水色チューブと、隣の赤チューブのキャップの状態を“見比べた”。
触らない。開けない。見るだけ。

水色:ふちに乾いた輪っか
赤:きれい

相棒が言う。
「水色は最近開け閉めした可能性がある。青チューブがなくても、“青系を使った動き”はあったかも」

ここでぼくは、自分に問い直した。
(青がない=だれかが持っていった、って思ってない? いや、青系を使っただけでも点は付く)

3)筆洗いバケツの水位から“作業量”を推測し、確かめる

ぼくは水位を見て、思った。
水を足した人がいるなら、その人は近くにいたはずだ。

先生に質問する。
「先生、水が増えるのって、どんな時が多いですか?」
先生は答える。
「筆をたくさん洗ったとき。特に濃い色を使うと水がすぐ濁るから、足したくなるね」

そこで相棒が続ける。
「今朝、早く来て図工室で作業していた人はいますか?」
先生が名簿を思い出すみたいに言った。
「美術係の子が、展示用の作品を乾かしに来てたかも」

美術係の子に聞くと、素直に答えてくれた。
「うん、来た。昨日の共同制作の“夜の空”のやつ、乾かす場所を変えた。筆洗いの水が濁ってたから、ちょっと足した」

共同制作。“夜の空”。
青を使いそうなテーマだ。

4)青い点を“追跡”する(点は道になる)

ぼくと相棒は、棚の端の青い点の近くから、目をこらして周りを見た。
床には点はない。でも棚の角から、少し離れた机の脚に、小さな青い線がある。
乾いた絵の具の線だ。

相棒が小声で言った。
「点が続いてる。青いものが触れた道かも」

“道”は、目に見えないはずの動きを見せてくれる。
棚→机脚→乾燥ラック(作品を置く棚)へ向かうあたりで、青い点がひとつ、またひとつと見つかった。

そして乾燥ラックの下のトレーに、見覚えのある絵の具チューブが横たわっていた。
……青!

でも、ここで相棒はすぐに言い切らない。
「見つかった“っぽい”。確認しよう」
先生に見てもらい、ラベルを読んでもらう。
先生が言った。
「うん、これは青のチューブだね」

青は、“学校から消えた”わけじゃなかった。
ただ、“いつもの場所”から動いていただけ。

5)赤ひげの金ラメを検証する(正体を聞いて確かめる)

残るのは、金のラメ。
青の謎と関係あるか、ないか。

相棒は、図工室の別の棚を指さした。そこには「コラージュ材料」「装飾」と書かれた箱がある。
箱のふたが少し開いていて、中に金ラメの小袋が見える。

先生が笑った。
「ああ、それは六年生の作品の材料。昨日、飾りの星を作ってたんだ」

念のため、六年生の子にも聞く。
「金ラメ、昨日ここで使った?」
「使った! ちょっとこぼしたかも。ごめん!」
先生はすぐに言う。
「いいよ、あとで一緒に掃こう」

[赤ひげ(誤った手がかり)確定:金のラメ=別作品の材料]
派手で目立つから“事件っぽい”けれど、青の移動とは別の理由だった。

これで、必要な事実がそろってきた。


排除 ――消せる推測は消して、残る道を細くする

ここまでの検証で分かったこと:

  • 青のチューブは乾燥ラック下のトレーにあった(発見)
  • 美術係の子が今朝、共同制作「夜の空」を扱い、水を足した(聞き取り)
  • 棚の端の青い点が、棚→机→乾燥ラック方向に続いていた(追跡)
  • 水色チューブのキャップに乾きがあり、青系の使用が近かった可能性(観察)
  • 金ラメは別作品の材料(赤ひげ)

これで、「だれかが持ち帰った」という仮説はかなり弱くなる。
青は室内にある。しかも、共同制作の動きと自然につながる。

残るのは、日常的な原因。

  • 共同制作の片づけのとき、青を“いつもの棚”ではなく乾燥ラック側に置いた
  • 水を足したり作品を動かしたりして、手がふさがり、一時置きした
  • そのまま戻し忘れた(忘れ物)

ぼくは自分にもう一度聞く。
(「忘れた」って決めていい? 事実は?)
事実は、青が乾燥ラック下にあったこと。
忘れたかどうかは、まだ推測。だから、最後に本人に確認する。


結論 ――沈黙していた青は「一時置き」からの取り違え

相棒が、美術係の子にやさしく聞いた。
「今朝、青のチューブ、使った?」
美術係の子は少し驚いてから、思い出した顔をした。

「……使った。夜空のグラデーション、青が必要で。で、作品を乾かすときに、チューブをトレーに置いたまま、別の作業に行っちゃったかも」

その言い方には、“わざと”の感じがない。
ただ、作業の流れの中の“よくあること”だ。

先生はうなずいて、責めずに言った。
「ありがとう、正直に言ってくれて。みんなで使うものだから、次から戻す場所を分かりやすくしよう」

ここで、ぼくは青い点を指さした。
「棚の端の青い点が、道みたいになってた。青がこっちに来たって分かったよ」

美術係の子が、ちょっと照れた顔で言った。
「点、ぼくが付けたのか……。ごめん。ふく!」

先生が言う。
「拭くのは一緒にやろう。失敗は“次に上手くなる材料”だからね」

相棒も、最後にまとめる。
「今回の“沈黙の色”は、青が消えたんじゃなくて、“場所が変わって黙っていただけ”。
手がかりは、キャップの乾き、水位、青い点。派手な金ラメは関係なかった(赤ひげ)」

先生は、美術棚の前に小さなトレーを置いた。
そこに紙で「一時置きトレー(作業中のもの)」と書いて貼る。

「作業中に置く場所を決めると、戻し忘れが減るよ」
先生はそう言って、青のチューブを元の棚に戻した。ラベルが前を向くように。

青は、また棚で“声”を取り戻したみたいだった。
雨の絵の時間、みんなの紙の上に、薄い青、濃い青、紫に近い青が広がっていく。
沈黙していた色は、ちゃんとここにいた。
ただ、ちょっとだけ居場所を間違えていただけだった。

そして、美術係の子は言った。
「次から、一時置きトレー使う。あと、使ったら“戻した?”って自分に聞く」
相棒がうなずく。
「それ、探偵っぽい」

誤解がほどけると、空気が軽くなる。
“だれが悪い”じゃなく、“どうすれば迷子にならないか”。
美術棚の前には、そういう答えが残った。

探偵ノート

思考レッスン:観察は「五感+メモ」で強くなる

観察は目だけじゃない。

  • :色、点、並び、ラベル
  • :作業の音、誰が来たかの話
  • :乾いた絵の具の匂い、紙の匂い(“最近使った”のヒントになることも)
  • :今回は安全のため触らない観察が中心。でも、許可があれば“乾き”を軽く確かめることもある
  • 気持ち:ドキッとしても、すぐ言い切らずに「なぜそう思った?」と自分に聞く

そして、メモはこう書くと便利:
「事実」と「推測」を分ける。推測は“〜かもしれない”で止める。

対話型質問(考えて答えてみよう)

  1. キャップの乾き具合は、どうして手がかりになったの?(時間とどう関係する?)
  2. 筆洗いバケツの水位は、どんな行動を想像させた? その想像は、どうやって確かめた?
  3. 金のラメはなぜ“赤ひげ”だった? 見た目に引っぱられないために、どんな質問が役に立った?

家の安全な色観察課題:「色の足あと」ミニ実験

家でできる、安全な観察ミッション(大人にOKをもらってね)。

  1. 透明なコップに水を入れる
  2. 食紅やジュースを一滴だけ落とす(なければ、色のついた飴を少し溶かしてもOK)
  3. 何も混ぜずに、30秒ごとに「色の広がり方」を見てメモする
    • 例:「底に濃い色のかたまり→ゆっくり上へ広がる」
  4. 最後にスプーンで一回だけ混ぜて、混ぜた前後の違いもメモする

ポイント:目で見た“事実”を書こう。「きれい」より「うすい青が右に広がった」みたいに。

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