第4章 ボールの並び替え事件

第4章 ボールの並び替え事件 探偵科学

体育館のとなりの廊下は、朝の冷たい空気が少しだけ残っていた。
壁に貼られた体育の予定表の紙が、だれかが通るたびにふわりと揺れる。

ピーッ。

どこかで鳴った笛の音が、体育館の中で跳ね返って、廊下まで薄く流れてきた。
まるで映画のワンシーンみたいに、音だけが先に走っていく。

ぼくと相棒は、その音の残響を背中に感じながら、体育の先生に呼ばれていた。
先生が立っているのは、体育館の横にある小さな扉の前――体育用具室だ。

扉が開くと、ふわっと独特のにおいがした。
ゴムのボールのにおい、木の跳び箱のにおい、ロープのにおい。それに、少しだけ体育館の床のワックスのにおい。

薄暗いわけじゃない。でも、棚が高くて影ができるから、用具室の中は「探検」っぽく見える。
棚の影がしましまになって床に落ちていて、ボールネットの丸い形が、壁にまるい影を作っていた。

体育の先生が腕を組んで、困ったように笑った。
「大事件じゃないんだがな。……ボールが“並び替え”されてるみたいなんだ」

「並び替え?」相棒が首をかしげる。
先生は棚を指さした。バスケットボール、ドッジボール、サッカーボール。ボールネットに入って、だいたい種類ごとにまとまっている。

「いつもは、こっちがバスケ、こっちがドッジ。ネットの置き場所も決まってる。ところが今朝見たら、順番が入れ替わっててな。授業の準備で『あれ?』ってなるんだ」

ぼくは、ちょっとだけ胸がきゅっとした。
掲示板の画びょうみたいに、こういう“ちいさなズレ”は、クラスの雰囲気をざわつかせやすい。

でも先生の声は明るい。怖い話じゃない。
「誰かが悪いって決めたいわけじゃない。原因を知って、次から困らないようにしたいだけだ」

相棒が、すぐに“確かめる質問”を使った。
「先生、いつ気づきました? それと、最後に用具室を使ったのは誰ですか?」
先生はうなずく。
「気づいたのは今朝。最後に使ったのは昨日の放課後、バレー部がネットやボールを片づけに入った。あと、学年体育でボールを使ったクラスもある」

ぼくと相棒は目を合わせた。
「観察から始めよう」
相棒が小さく言って、ぼくらは用具室に一歩入った。


観察 ――「いつもと違う」を、目で集める

まず、手を出さない。
用具室は物が多いし、倒れたら危ない。先生もいるし、安全第一だ。

相棒は入口の横に立って、棚全体を見渡した。ぼくは床の方を見る。
すると、いくつかの「違い」が見つかった。

1)ボールネットの結び方がそろっていない

棚の中段に、ボールネットが三つ並んでいる。
ひとつは口が“ちょうちょ結び”。
もうひとつは口が“固結び”で、結び目が小さくかたい。
さらにもうひとつは、結び目が横向きで、ひもが長く垂れている。

[手がかり1:ボールネットの結び方の違い]
相棒が結び目を指さし、先生に確認するように言った。
「先生、いつも結び方って決まってますか?」
先生は笑った。
「実はな、部活ごとに癖がある。バレー部は固結びが多い。授業のときは、ほどきやすいちょうちょ結びにするように言ってる」

“結び方”は、だれが最後に扱ったかのヒントになりやすい。
形として残るからだ。

2)床に貼られたテープ線と、置き場所のズレ

床には、目立たないけれど色つきのテープ線が貼ってある。
黄色い四角は「バスケネット」
青い四角は「ドッジネット」
白い線は「通路、ここは物を置かない」

でも今、青い四角の上にバスケっぽいボールが入ったネットが置かれている。黄色い四角の上には別のネット。

[手がかり2:床のテープ線(定位置)とズレ]
ぼくは、床のテープ線を目で追って言った。
「テープ線が“いつもの場所”を教えてくれてるね。ズレがあるってことは、だれかが動かしたか、戻し間違えたか」

先生も頷く。
「そう。だから『並び替え』って感じるんだ」

3)使った後の札(タグ)が残っている

棚の端に、小さなクリップ付きの札がいくつかかかっていた。
「使用中」「点検待ち」「空気入れた」みたいな文字が書いてある札だ。

そのうち一枚、「使用中」の札が、なぜか“空っぽのフック”にかかっている。
札だけが残って、対象のボールネットがそこにない。

[手がかり3:使った後の札(タグ)の位置が合っていない]
相棒が先生に聞いた。
「この札、いつもどう使うんですか?」
先生が説明する。
「使う人が“使用中”をつけて、戻したら外す。点検が必要なら“点検待ち”へ」

札が残っている=片づけが途中だった可能性がある。
あるいは、札の付け替えだけ忘れた可能性もある。

4)棚のすき間に見つかった“怪しい赤いひも”

そして、いかにも怪しく見えるものがあった。
棚の下の方に、赤いひもが一本、にょろっと出ている。

「……あれ、なに?」
ぼくが言うと、近くにいた低学年の子が「こわい!」と小さく言いかけた。

確かに、赤いひもって目立つ。
何かを縛った跡? いたずらの道具? と想像してしまう。

でも相棒は、すぐに“推測”を止めた。
「いまは事実。赤いひもがある。それだけ。触らずに先生に確認しよう」

[赤ひげ(誤った手がかり):見つかった“怪しい赤いひも”】【後で検証して外れる】

観察のまとめ(いま分かる事実):

  • ボールネットの結び方が複数ある
  • 床のテープ線の定位置と、実際の置き場所がずれている
  • 使った後の札が合っていない(札だけ残る、など)
  • 棚の下に赤いひもが見える(正体不明)

「次は仮説だね」
相棒がメモ帳を取り出した。ぼくは、先生の表情が“責める”じゃなく“困りごとをほどく”になっているのを見て、少し安心した。


仮説 ――並び替えは「わざと」だけじゃない

相棒が指を折りながら、可能性をいくつか出した。

  1. 片づける人が違って、定位置を知らなかった(初めて担当、低学年、代理など)
  2. 急いでいて、床のテープ線を見ずに戻した
  3. 札の運用が途中で変わって、付け替えが追いつかなかった
  4. 同じネットが複数あり、見た目が似て取り違えた
  5. だれかがわざと入れ替えた(いたずら) ←これは最後まで保留

ぼくは、結び方の違いを思い出しながら言った。
「結び方の癖があるなら、最後に触った人のグループが分かるかもしれないね」

先生も言った。
「そうだな。バレー部の子は片づけが上手いけど、人数が多いと“同じ棚”に一気に戻してしまうこともある」

相棒がうなずく。
「じゃあ、検証は安全に。数を数えて、並びを確認して、先生や部活の子に“責めない質問”で確かめよう」


検証/確認 ――数える、再現する、聞いて確かめる(安全に)

1)まず「数」をそろえる:本当に足りない? 多い?

先生の許可をもらって、ぼくらは“目で見える範囲”で数を数えた。
重いものは先生が動かす。ぼくらは指さしで確認する係。

相棒が言う。
「バスケ用ネットは本来いくつ? ドッジは?」
先生が答える。
「バスケネットは2つ、ドッジネットも2つ、サッカーは1つ。今日はそれで足りる」

ぼくらは棚の中を確認した。
結果、ネットの数は合っていた。足りないわけじゃない。
ただ、置き場所が入れ替わっている

ここで「盗まれた」仮説は弱くなる。
数が合うなら、消えたのではなく、移動しただけの可能性が高い。

2)床のテープ線で「定位置」を再現する

次に、床のテープ線を“地図”として使う。
先生がボールネットを一つずつ持ち上げ、ぼくらが床の四角を指さして案内する。

「青の四角がドッジです」
「黄色がバスケです」
「白線の通路には置かない」

こうして、本来の並びを再現していくと、ひとつ不思議が残った。
札が合わない。

「使用中」の札が、空っぽのフックに残ったまま。
つまり、札だけが置き去りになっている。

相棒が先生に“確かめる質問”。
「先生、札って“誰がいつ付けたか”記録ありますか? 例えば、裏に日付を書くとか」
先生が札を手に取って裏を見る。
「お、裏に小さく書いてあるな。“昨日 放課後 バ”……たぶんバレー部の“バ”だ」

相棒がメモする。
事実:札の裏に「昨日 放課後 バ」と書いてある

“札が手がかりである理由”がここで分かる。
札には、使ったタイミングの情報が残ることがある。見た目は紙でも、記録になっている。

3)結び方を「照合」する:誰の扱い方に近い?

次は、結び方だ。
先生の話では、バレー部は固結びが多い。授業はちょうちょ結び。

相棒が言った。
「先生、バレー部の子に“どの結び方にしたか”聞いてもいいですか?」
先生は頷く。
「責めない言い方でな。頼むぞ」

ちょうど体育館の入口で、バレー部の子が準備していた。
相棒は声のトーンを柔らかくして聞く。

「昨日の放課後、ボールの片づけした? そのとき、ネットの口ってどんな結び方にしたか覚えてる?」
バレー部の子はすぐ答えた。
「したよ。ほどけないように固結びにした。先生に言われてるし、いつもそう」

ぼくは、用具室で見た固結びのネットを思い出した。
それは、まさに“バレー部っぽい”結び方だった。

相棒がさらに質問。
「戻す場所は、床のテープ線を見た?」
バレー部の子は少し困った顔で笑った。
「えっと…暗くて急いでたから、正直あんまり見てない。とりあえず棚に入れた」

責められていないから、正直に言える。
これが聞き取りの強さだ。

4)赤いひもを検証:触らずに先生に確認

最後に、赤いひも。
相棒が先生に言った。
「赤いひも、気になります。先生、何かのタグですか?」

先生が棚の下をのぞき、すぐに笑った。
「ああ、それか! 跳び箱の“番号タグ”のひもだ。タグが外れかけて、ひもだけ見えてるんだな」

先生が安全に手を入れて引き出すと、赤いひもの先に小さな札がついていた。
「跳び箱 3段」みたいな文字。

[赤ひげ(誤った手がかり)確定:怪しい赤いひも=跳び箱タグ]
見た目が目立つから怪しく見えたけど、ただの用具の一部だった。

これで、“怖い方向”の想像は消えた。
残るのは、片づけの流れの問題だ。


排除 ――「いたずら」より先に消せるものを消す

いま分かった事実を並べる。

  • ネットの数は合っている(消えていない)
  • 床のテープ線の定位置と、実際の置き場所がズレていた
  • 札に「昨日 放課後 バ(バレー部)」の記録がある
  • バレー部の子は固結びにした/テープ線はあまり見ていない(本人の話)
  • 赤いひもは跳び箱タグ(赤ひげ)

この時点で、仮説を整理すると――

  • 「だれかがわざと入れ替えた(いたずら)」
    → それを示す証拠がない。数も合う。話も自然。優先度を下げる

残るのは、日常的な仮説。

  • 「急いで棚に入れた」+「床のテープ線を見なかった」
    → 置き場所のズレを説明できる。
  • 「札の付け外しが途中」
    → 札だけ残っていた理由になる。

ぼくは、もう一つ気づいた。
床の白い通路線の上に、ほんの少しだけゴムの黒い跡がある。
ネットを引きずると、そういう跡がつくことがある。

「先生、昨日の放課後って、照明はいつも通り明るかったですか?」
ぼくが聞くと、先生は「いや、体育館の片づけを急いでて、用具室は半分だけ点けたかも」と言った。

暗めで、急いでいた。
それなら、テープ線を見落としてもおかしくない。

あとは「どうすれば次から困らないか」。
結論に進もう。

結論 ――並び替えの正体は、急ぎ片づけと“目印不足”

先生が、バレー部の子も呼んで、みんなで用具室の前に集まった。
責める会じゃない。改善の会だ。

相棒が、メモを見ながら落ち着いて説明する。
「分かったことは3つです。
1つ目、ボールは足りていませんでした。数は合っています。
2つ目、床のテープ線(定位置)と違う場所に戻されていました。
3つ目、札に『昨日 放課後 バ』の記録があって、昨日の片づけの流れで札だけ残った可能性があります」

バレー部の子が、気まずそうに頭をかいた。
「ごめん…入れた場所、ちゃんと見てなかった」

先生はすぐに言った。
「謝る必要はない。片づけてくれたのは助かった。問題は“仕組み”だ。急いでると、誰でも間違える」

そこで先生は、みんなが納得できる“整理整頓の解決”を提案した。

  • 床のテープ線に、文字も追加する(青=ドッジ、黄=バスケ、と大きく)
  • ボールネットの結び方を統一する(授業も部活も“ちょうちょ結び”にするか、ほどきやすい結びを決める)
  • 「使用中」札は、必ずネットの取っ手にクリップで付ける(空フックに残らないように)
  • 片づけの最後に“数と場所チェック”を1人がする(30秒でOK)

ぼくは、先生が最後に言った言葉が好きだった。
「片づけは“上手い人”の才能じゃない。“間違えにくい形”にする工夫だ」

バレー部の子も、顔を上げて言った。
「じゃあ、次からチェック係、ぼくやる。テープ線、ちゃんと見る」

相棒がにこっとして、ぼくに小声で言う。
「誰も責めないで、みんなが強くなる解決だね」
ぼくは、ボールのにおいをもう一度吸いこんだ。さっきより、少しだけすっきりしたにおいに感じた。

用具室の棚の影は変わらない。
でも、影の中の“並び”が整うと、心の中のざわざわも整う。

こうして「ボールの並び替え事件」は、だれも悪者にしないまま、みんなが納得する形で終わった。
謎を解いたのは、特別な道具じゃない。
観察して、仮説を出して、数えて確かめて、不要な推測を消して、結論をまとめた――それだけだった。

探偵ノート

思考レッスン:数える=検証(ほんとうか確かめる方法)

「なくなったかも」と思ったら、まずは数える
数えると、気持ちじゃなくて“事実”になる。

  • 「足りない気がする」→ 推測
  • 「バスケネット2、ドッジネット2、サッカー1で合計5。実際も5」→ 事実

数が合えば、「消えた」より「場所が違う」「戻し方の問題」の線が強くなる。
数えることは、探偵の大事な検証だよ。

対話型質問(考えて答えてみよう)

  1. ボールネットの結び方は、どうして手がかりになった?(何が“残る”情報だった?)
  2. 床のテープ線があるのに、なぜ置き間違いが起きたと思う?(状況を想像してみよう)
  3. 赤いひもが赤ひげだと分かったのは、どんな確かめ方をしたから?

家でできる片づけ検証ミッション(安全)

家の中で、同じ種類の物がまとまっている場所(例:靴下、文房具、リモコン、積み木)を1か所選んで、次をやってみよう。

  1. 数える(いま何個ある?)
  2. 定位置を決める(ここに置く、と紙に書く/テープで目印を付ける ※床に貼るときは家の人と相談)
  3. 1日後にもう一度見て、数と場所が合っているか検証する
    • 合っていなかったら、「誰が悪い」ではなく「間違えにくくする工夫」を1つ考える

危ない場所(高い棚、重い箱、刃物の近く)は選ばず、できれば家の人と一緒にね。

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