
朝の廊下は、まだ少しだけ眠っているみたいだった。
窓から差しこむ光が、床のワックスに細い川のように伸びて、そこを上ばきが「きゅっ、きゅっ」とすべる。遠くの教室から、机を引く音。だれかの笑い声。プリントをめくる「ぱらり」という乾いた音。
そして――
廊下の壁にある大きな掲示板の前を通ると、貼られた紙がふわっと揺れた。
風? それとも、だれかが走り抜けたせい?
紙の角が小さく震えて、画びょうの頭が、光を受けてちかっと光った。
ぼくと相棒は、その揺れを同時に見た。
相棒は目がいい。ぼくは音と“ちいさな変化”に気づきやすい。ふたりで歩くと、いつもの廊下が少しだけ「事件の舞台」みたいになる。
掲示板の前に、一人の先生が立っていた。片手にクリップボード、もう片手に小さな透明ケース。先生の眉が、ほんの少しだけ寄っている。
「おはようございます」
相棒が声をかけると、先生はほっとした顔で笑った。
「おはよう。ちょうどよかった。……ねえ、ふたりとも、ちょっと見てくれる?」
先生は透明ケースを持ち上げた。中には、赤や青や白の画びょうが入っている。
「画びょうの数が合わないの。昨日、たしかに補充したのに、今朝見たら足りない気がして」
先生は掲示板を指さした。
「掲示物も、少しだけ傾いているものがあるし……誰かが困っていたら嫌でしょう?」
“足りない気がする”。
それは、まだ「事実」じゃない。けれど、先生の困りごとは本物だ。
相棒が、いつもの落ち着いた声で言った。
「先生、確かめてもいいですか? まず、何個あるはずか教えてください」
先生はうなずく。
「このケース、昨日はちょうど50個にしたの。数えて入れたから覚えてる。でも今朝数えたら、43個だったのよ」
7個ぶん、合わない。
小さな針の7個。でも、備品が合わないと、困るのはみんなだ。
ぼくと相棒は、目を合わせた。
「だれかを疑う前に、事実を集めよう」
相棒の小声に、ぼくはうなずいた。
こうして、朝の光が揺れる掲示板で、「画びょうの数が合わない」謎が始まった。
観察 ――「見たこと」を集めて、思い込みを止める
相棒は、先生から紙と鉛筆を借りた。
そして、いきなり推理を始めるのではなく、紙の上に大きく二つの欄を作った。
- 事実(見た・聞いた・確かめた)
- 推測(〜かもしれない)
「先に“事実”だけ集めよう」
相棒の声は小さいけれど、掲示板の前の空気が落ち着くのが分かった。
ぼくは掲示板全体をゆっくり見渡した。
学校だより、図書委員のおすすめ本、給食の献立、クラブのお知らせ、保健室からの注意。色とりどりの紙が、きれいに並んでいる。
その中で、いくつか「違い」が目に入った。
1)画びょうの“色”がそろっていない
掲示板の左上、学校だよりは赤い画びょう。
右下のクラブのお知らせは青い画びょう。
真ん中の給食献立は白い画びょう。
同じ掲示板なのに、使っている色がバラバラだ。
[手がかり1:画びょうの色が混ざっている]
相棒が近づいて、赤と青の場所を指で(触らずに)示す。
「色が混ざってるのは“誰かが別の場所の画びょうを使った”可能性があるよね。元のケースの中身も、色が混ざってる?」
先生がケースを見せてくれた。中には赤も青もある。
「そうなの。だから余計に分からなくて」
2)掲示物の角に“折れ”と“穴”
ぼくは、少し傾いている紙に注目した。
角が、ほんの少し折れている。しかも、その折れのすぐ近くに、画びょうの穴が二つ並んでいる場所があった。
「穴が二つ?」
ぼくが言うと、相棒も見に来た。
[手がかり2:掲示物の角の折れ+穴が二つ(貼り直しの跡)]
相棒は紙の端をよく見て、言った。
「一回外して、同じ場所か近い場所に刺し直したっぽいね。急いで貼り直すと角が折れやすい」
角の折れは、紙が強く引っぱられた証拠かもしれない。
でも、それが悪意とは限らない。風でめくれて、刺し直しただけかもしれない。
3)セロテープの“新旧”
掲示板の下の方に、画びょうじゃなくてセロテープで留められているプリントがあった。
テープの一部は黄ばんでいて、端が少し浮いている。別のプリントは、透明でぴかっとして新しい。
[手がかり3:セロテープの新旧(貼った時期が違う)]
相棒が先生に聞いた。
「先生、セロテープで貼るのはいつもですか?」
先生は首を振る。
「基本は画びょうよ。でも“針が危ない場所”とか“短い期間だけ”はテープで貼ることもあるの」
つまり、画びょうが減った理由は「取られた」だけじゃない。
「テープに変えた」なら、画びょうを抜いて別に置くことがある。
4)掲示板の端の“謎の暗号”っぽい落書き
そして、いちばん目立つものがあった。
掲示板の木のふちに、小さく書かれた記号みたいな文字。
「△→□ 3-7 いちご 2A」
ぱっと見、暗号に見える。
“犯人のメッセージ”みたいで、どきっとする。
近くを通った子が言った。
「え、なにそれ! こわっ。暗号じゃん!」
でも相棒は、すぐに紙の「推測」欄に書いた。
“暗号かもしれない(推測)”
そして、落ち着いて言う。
「今は事実だけ。そこに文字があるのは事実。でも“暗号”はまだ決まってない」
[赤ひげ(誤った手がかり):謎の暗号っぽい落書き]
いかにも怪しい。でも、正体はまだ分からない。
先生も、うなずいた。
「そうね。決めつけないで確かめましょう」
観察で集めた“事実”は、こんな感じだ。
- 先生は昨日50個に補充した(先生の記憶+作業)
- 今朝は43個だった(先生が数えた)
- 掲示板の画びょうは色が混ざっている
- 角が折れて穴が二つの掲示物がある
- セロテープが新しいものと古いものがある
- 掲示板のふちに記号みたいな文字がある
「よし。仮説を出そう」
仮説 ――画びょうは、どこへ行ける?
相棒が、今度は「推測」欄に、考えられる道を並べた。
“誰が悪いか”じゃなく、“画びょうが移動できる道”を考える。
- 画びょうを抜いて別のところに置いた(机の上、ケースの外、別の箱)
- テープに貼り替えた掲示物があり、抜いた画びょうを戻し忘れた
- 別の委員会やクラブが一時的に借りて、色の違う画びょうを代わりに使った
- 掲示板の裏やふちに落ちて、見えないところに入った
- 誰かが持っていった(でも、証拠が出るまで最後)
ぼくは、掲示板の角の折れを見ながら言った。
「貼り直しがあったなら、その時に画びょうがポケットに入ったまま…ってこともありそう」
相棒がうなずく。
「うん。『持っていった』と『うっかり持ち帰った』は違う。前者は意図、後者は忘れ物。どっちも今は推測だけど」
先生が、ほっとしたように息をついた。
「そう言ってもらえると助かるわ。じゃあ、確かめていこう」
検証/確認 ――やさしい質問で、事実を増やす

1)「最後に掲示板を触ったのは誰?」を確かめる
相棒が先生に尋ねた。
「先生、昨日この掲示板を更新したのは、どの係ですか?」
先生はクリップボードを見た。
「放課後に、掲示係の子たちが貼り替えたはずよ。あと、図書委員がおすすめ本を貼ってたかも」
ぼくらは、掲示係の子を探した。
ちょうど廊下に来た掲示係の子に、相棒が声をかける。
「おはよう。昨日、掲示板貼り替えた?」
「うん、やったよ。学校だよりと、保健室のお知らせ」
ここで、相棒が“確かめる質問”を使う。責める言い方はしない。
「そのとき、画びょうは何色を使った? ケースはこれ?」
相棒が先生の透明ケースを見せると、掲示係の子が言った。
「えっと、赤を使った。ケースは…たぶん同じ。けど、途中で赤が足りなくなって、職員室でもらった青を少し使ったかも」
“赤が足りなくなって青を使った”。
これは、画びょうの色が混ざっている理由につながる。
相棒はすぐにメモする。
事実:掲示係は赤を使った/途中で青も使った(本人の話)
2)角の折れ:貼り直しはなぜ起きた?
ぼくは、角が折れて穴が二つのプリントを指さした。
「このお知らせ、角が折れてるけど、貼り直した?」
掲示係の子が頷く。
「うん。貼ってすぐ、紙がちょっと斜めで気になって。刺し直した。あと、風でめくれたやつもあった」
相棒が落ち着いて言う。
「“貼り直した”は事実。でも“誰かが乱暴に外した”は推測だね」
掲示係の子も、ほっとした顔をする。
「うん、ぼくがやった。ごめん、穴増えた」
先生は笑った。
「謝らなくていいのよ。貼り直してくれたのは親切だもの」
角の折れは、事件じゃなく、丁寧さのしるしだった。
3)セロテープ:誰が、どの掲示物をテープで貼った?
次に、セロテープの新旧。
先生が言った。
「新しいテープは、今朝私が仮留めしたの。画びょうが足りないかもしれないと思って、とりあえず落ちないように」
つまり、新しいテープは“今朝”。
古いテープは“前から”。
相棒が質問する。
「古いテープの掲示物、いつ貼ったものですか?」
先生がプリントの日付を見て言う。
「先月の“安全週間”のだわ。もう外していいかもね」
ここで大事なのは、画びょうの数が合わない原因が「今朝」だけじゃない可能性。
画びょうは、前からテープと混在して、抜き差しされていたかもしれない。
4)掲示板のふちの“暗号”の正体を確かめる(赤ひげ検証)
最後に、いちばん目立つ赤ひげだ。
相棒が、廊下を通りかかった別の子にやさしく聞いた。
「ねえ、この文字、書いた人知ってる?」
その子は「あ、それ!」とすぐ言った。
「それ、暗号じゃないよ。あの子が書いてた。たぶん忘れないためのメモ」
ちょうどタイミングよく、近くから当人が来た。
相棒はその子に、責めない言い方で聞く。
「この掲示板のふちのメモ、書いた? 何のメモ?」
その子は少し恥ずかしそうに、でも素直に言った。
「……うん。昨日、先生に頼まれて“配り物の順番”を覚えるメモを書いた。『2A』は2年A組のこと。『3-7』は3年の7番の子に渡すとか。『いちご』は合図の言葉で……暗号じゃないよ!」
ぼくは、思わず笑いそうになって、あわてて口を押さえた。
暗号じゃなくて、ただのメモ。しかも、ちゃんと意味がある。
先生がやさしく言う。
「ふちに書くのは、次からは紙にしようね。でも助かったわ」
[赤ひげ(誤った手がかり)確定:暗号っぽい落書き=配り物のメモ]
目立つものほど怪しく見えるけれど、確かめると普通の理由がある。
赤ひげが外れたところで、残る問題は「画びょうの数」だ。
5)画びょうはどこへ? “数”を事実にする
ぼくは、先生に提案した。
「先生、ケースの中の色ごとの数って分かりますか? 赤が何個、青が何個…みたいに」
先生は少し驚いた顔をしてから、うなずいた。
「いい視点ね。数えましょう」
先生と相棒とぼくで、透明ケースの中を色別に数えた(落とさないように机の上で)。
結果はこうだった。
- 赤:26
- 青:12
- 白:5
合計:43
先生が眉を上げる。
「昨日は確か、赤が多めだったはず…。50個入れた時、赤をたくさん足したのよ」
相棒が言った。
「昨日の“50個”の内訳は覚えてますか?」
先生は首をかしげる。
「正確な内訳は覚えてない。でも、青はこんなに多くなかったと思う」
ここで、ぼくらは次の検証に進む。
排除 ――「盗まれた」を急がない
いま分かっていることから、仮説をしぼる。
- 掲示係が赤不足で青をもらって使った → 色の混在は自然に起きる
- 角の折れや穴は貼り直し → “乱暴に外された”とは限らない
- 暗号はただのメモ → 事件の証拠ではない(赤ひげ)
- テープは今朝の仮留め+古い掲示物の残り → 画びょうの抜き差しが多い環境
すると、「誰かがわざと持っていった」という仮説は、証拠がまだない。
残るのは、より日常的な道だ。
- 抜いた画びょうがどこかに“移動”した(ポケット、別の箱、床、掲示板のふち)
- 掲示板の作業中に落ちて“見えない所へ入った”
ぼくは、掲示板の下の床を見た。
床に落ちていれば見つかるはず。でもない。
それなら…見えない所?
相棒が、掲示板の下の木のふちを指さした。
「掲示板って、枠のすき間があるよね。そこに落ちたら見えないかも」
先生が頷く。
「確かに、ふちの内側に細いすき間があるわ」
危ないことはしない。掲示板を無理に動かさない。
先生が安全に確認できる範囲で、ふちの下をそっと見てくれることになった。
結論 ――消えた7個は「移動」と「うっかり」の組み合わせ
先生が掲示板の下のふちに、定規をそっと差し入れてみた。
カツン、と小さな音。
「何か当たった」
先生がもう少し動かすと――
カラ…カラ…と、軽い音がして、ふちのすき間から小さなものが二つ、床に転がり出た。
赤い画びょう。
「出てきた!」
ぼくが言うと、掲示係の子が目を丸くした。
「え、そこに落ちるんだ…」
先生は笑いながら、もう一度そっと探る。
すると、今度は青い画びょうが一つ、続けて二つ。合計、5個出てきた。
「これで5個」
相棒がメモする。事実として「掲示板のふちから5個出てきた」。
残りは2個。
そのとき、掲示係の子がポケットをさぐって、顔を赤くした。
「……あ」
手のひらに、赤い画びょうが一つ。
「昨日、途中で手がふさがって、ポケットに入れたまま…忘れてた」
その子は小さく頭を下げた。
「ごめんなさい」
先生はすぐに首を振った。
「謝らなくていいのよ。見つかったし、気づいて教えてくれたのが大事」
残り、1個。
ぼくらは焦らなかった。
相棒が言う。
「ここまで来たら、最後も“日常的な場所”にあるはず。掲示板の近くで、画びょうを一時的に置く場所ってありますか?」
先生が「あ」と言って、掲示板の横の小さな棚を見た。
そこには、掲示用のマグネットや、古いお知らせを入れる封筒が置いてある。
先生が封筒を開けると、紙の束の間から、白い画びょうが一つ、ぽとりと落ちた。
古い掲示物を外したとき、紙に刺さったまま封筒へ入ってしまったらしい。
「これで7個、全部」
相棒が、メモの最後に丸をつけた。
- 掲示板のふち:5個
- 掲示係のポケット:1個
- 古い掲示物の封筒:1個
先生は、透明ケースに画びょうを戻しながら言った。
「なるほどね。“盗まれた”じゃなくて、“落ちた”と“入った”と“忘れた”が重なったのね」
掲示係の子が、ほっとした顔をして相棒とぼくを見た。
「ぼく、疑われるかと思った…」
ぼくは首を振る。
「最初から、疑ってなかったよ。事実を集めたら、ちゃんと理由が出てきた」
相棒も笑った。
「それに、君が“ポケットにあった”って言ってくれたのは、すごく勇気だよ。ありがとう」
その子の表情が、ぱっと明るくなった。
最後に先生は、みんなが困らないように小さな工夫を提案した。
- 掲示板用の画びょうは「赤だけ」など、色を決める
- 外した掲示物は、封筒に入れる前に“画びょうが刺さったままじゃないか確認”
- ふちに落ちないよう、作業はトレー(浅い箱)の上で画びょうを扱う
掲示板の紙は、朝の風にまた少し揺れた。
でも今度は、揺れが「不安」じゃなく「いつもの学校」に見えた。
“画びょうの数が合わない”謎は、だれも責めずに終わった。
そして、掲示係の子は、前よりちょっとだけ胸を張って歩き出した。
誤解がほどけると、人の距離も、少し近くなるんだとぼくは思った。
探偵ノート
思考レッスン:事実メモの取り方(短く、正確に)

- まず紙を2つに分けよう:「事実」と「推測」
- 事実は、見た・聞いた・確かめたことを、そのまま短く書く
- 例:「掲示板のふちから画びょうが5個出た」
- 推測は「〜かもしれない」と書いて、事実と混ぜない
- 例:「誰かが持っていったかもしれない(でも証拠なし)」
こうすると、だれかを早く疑いすぎず、あとで見直しても整理しやすい。
対話型質問(考えて答えてみよう)
- 画びょうの“色”は、どうして手がかりになった?(色が混ざると何が分かる?)
- 「暗号っぽい落書き」が赤ひげだと分かったのは、どんな質問をしたから?
- 今回、先生や友だちに聞くとき、どんな言い方が“やさしい聞き方”だった?
家でできる安全課題:家の掲示物で「事実メモ」練習
家で、壁や冷蔵庫などの掲示物(予定表、プリント、メモ)を1つ選んで、次をやってみよう。
※画びょうを使う家は、大人と一緒に。危ないので無理に触らないでOK。
- 掲示物を見て「事実」を3つメモ(例:テープが新しい/角が折れている/左上が浮いている)
- 「推測」を2つメモ(例:貼り替えたのかも/風ではがれたのかも)
- 大人に“確かめる質問”を1つして、推測が合っていたか確認してみよう(例:「これ、いつ貼ったの?」)
次の章の謎も、事実メモがきっと役に立つ。


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