
ガチャリ。
鍵が回る音は小さいのに、なぜか胸の中まで響く気がした。
先生がドアノブを押すと、学校の「備品庫」の扉がゆっくり開く。
薄暗い。だけど、怖くない。
むしろ、探検のはじまりみたいだった。
廊下の明るさが、ドアのすき間から細長い光の帯になって床へ伸びる。その光が、積み重なった箱やモップの柄、ボールのネットに切り取られて、影が映画みたいに動いた。
ふわり、と紙とゴムと木の匂い。
きっと、たくさんの「みんなが使うもの」が眠っている匂いだ。
ぼくと相棒は、先生のうしろに並んだ。
相棒は目がいい。ぼくは音に敏感。前の章から、もう「小さな探偵」気分が抜けない。
「大げさじゃない困りごとなんだけどね」
先生が笑いながら言った。
「図工の時間に使う“水彩パレットの箱”が、数が合わないの。足りないってわけじゃなくて、なぜか違う箱が混じっていて、準備が遅れちゃうのよ」
相棒がすぐに「確かめる質問」を投げた。
「先生、いつからですか? 今日だけ? それとも前の時間から?」
「うーん、先週の図工でも、ちょっと変だった気がするわ。今日ははっきり“おかしい”って思った」
ぼくも続ける。
「最後に備品庫を使ったのは、どの学年のどの授業ですか?」
先生は、備品庫の奥を指さしながら答えた。
「昨日は体育の先生がボールを取りに来てた。図工のものは…たぶん、四年生が先に使ったはず」
事件、というより“整理の謎”。
でも、こういうのほど、観察と整理が効く。
「じゃあ、見ていいですか?」と相棒。
「もちろん。危ないものは触らないでね」先生はうなずき、照明のスイッチを入れた。
パッ、と明るくなる。影が短くなって、棚がよく見えた。
備品庫の中は、きちんとしている…はずだった。
だけど、よく見ると、ほんの少しだけ“ずれ”がある。
その“ほんの少し”が、今日の謎の入口だった。
観察 ――備品庫は「小さな違和感」が落ちている場所
ぼくらは、棚の前で立ち止まり、まず“手を出さずに”目と耳で集めることにした。
先生も協力して、必要な箱の棚を指さしてくれる。
「水彩パレットの箱は、あの棚の中段。ラベルに『パレット』って貼ってある」
棚には、透明な収納箱がいくつも並んでいた。
そのひとつひとつに、白いラベル。マジックで大きく名前が書いてある。
相棒が、ラベルの列をじっと見る。
「先生、これ…ラベルが少しずれてます」
ぼくも目を細めた。
確かに、“パレット”と書いてあるラベルだけ、ほんの数ミリ斜め。貼り直したみたいに端が少し浮いている。
[手がかり1:棚のラベルのずれ(貼り直し跡)]
相棒は、ラベルには触れないまま、箱の前面を横からのぞいて、浮き具合を確かめる。
「ここだけ貼り直したなら、何か理由があったのかも。箱が入れ替わったとか」
次に、ぼくは床を見た。備品庫の床には、うっすらほこりがある。掃除はしてあるけれど、倉庫だから、完全につるつるにはならない。
すると、棚の前の床に、細い筋が一本走っていた。
ほこりが、引っぱられたみたいに薄くなっている。
[手がかり2:床のほこりの筋(何かが引きずられた跡)]
ぼくは、床に顔を近づけすぎないように気をつけながら、筋の向きを目で追った。筋は棚の前から始まって、少し斜めに通路へ伸び、別の棚の足元で消えている。
「これ、箱を動かした跡っぽい」
ぼくが言うと、相棒がうなずく。
「ほこりの筋は、勝手にはできにくいもんね」
そして、先生が困っている“混じっている箱”を、目で探した。
水彩パレットの箱のはずが、同じ形の箱がいくつもある。まるで“双子”だ。
相棒が棚の中段を数える。
「同じサイズの箱が…ここに三つ。ラベルは全部『パレット』。でも先生は『違う箱が混じってる』って言いましたよね」
先生が頷いて、ひとつを指さした。
「この箱だけ、中身が筆洗い(プラスチックの小さなバケツ)なの。形が似ていて、見た目だけだとわからないのよ」
なるほど。箱の形が同じだと、ラベルだけが頼りになる。
そしてラベルがずれている…ということは。
相棒が、箱の透明な側面から中を見た。
「この箱、ほんとだ。中が違う。パレットじゃなくて筆洗い」
[手がかり3:同じ形の箱の置き間違い(外見がそっくり)]
“同じ形”が、謎を作る。
そして“置き間違い”は、だれかの悪意じゃなく、よくあることだ。
ところが、その時。
棚の前の床に、ものすごく目立つ“足あと”があるのを見つけた。
丸くて、濃い青。ポン、ポン、と二つ。
まるで、犯人がスタンプで足あとを残したみたい。
「これ、あやしい…!」と、近くにいた友だちが言いかけた。
ぼくも一瞬ドキッとした。青い足あとって、普通じゃない。
でも相棒は、すぐに決めつけなかった。
「目立つのは確か。でも“あやしい”はまだ推測。まず、何の跡か確かめよう」
[赤ひげ(誤った手がかり):怪しい足あと風スタンプ(青い足あと)]
いかにも事件っぽい。だけど、“見た目が派手”は、真実とは限らない。
観察で集まったことを、心の中で並べる。
- ラベルがずれている(貼り直した跡)
- ほこりの筋が通路へ伸びている(何かが移動した)
- 同じ形の箱が並び、ひとつだけ中身が違う(置き間違いが起こりやすい)
- 青い足あとスタンプみたいな跡がある(目立つが正体不明)
「よし。次は仮説だ」
仮説 ――一つに決めない、道をいくつか用意する
相棒が小さく指を立てる。
「仮説をいくつか出して、あとで消していこう。まず三つ」
- ラベルの貼り間違い/貼り替えで、中身とラベルがずれた。
- 箱が移動したときに、同じ形の箱を取り違えた。ほこりの筋はその跡。
- **別の授業で使った人が“親切に戻した”**けど、戻す棚を間違えた。
そして、みんなが頭に浮かべてしまう仮説も、いちおう置く。
4) だれかがわざと混ぜた(いたずら)。
ぼくは、持ち物がなくなるよりは心配が少ないけれど、それでも“だれかのせい”にしたくないと思った。備品庫はみんなの場所。雰囲気が悪くなるのはいやだ。
「4は最後。証拠が出るまで、箱に入れて棚の上」
ぼくが言うと、相棒が笑った。
「うん、その言い方いいね」
先生も、やさしく言った。
「まずは、準備がスムーズになればいいの。だれかを困らせるために来たんじゃないからね」
ぼくらはうなずき合い、次の段階へ進んだ。
検証/確認 ――“確かめる質問”で、事実を集める

1)ラベルのずれ:いつ、だれが貼り直した?
相棒が先生に質問する。
「先生、ラベルって、だれが貼ったんですか? いつ頃?」
先生は少し考えてから答えた。
「新学期に、係の先生たちでまとめて貼ったわ。私は体育用品の棚を担当したから、図工の棚は別の先生ね。貼り直したかどうかは…わからない」
そこでぼくらは、“貼り直した人”を探すのではなく、“貼り直した理由”を探すことにした。
相棒が言う。
「ラベルがずれたのは、箱を入れ替えるときに急いで貼り直したとか、汚れたから貼り替えたとか、自然な理由もあります」
先生はうなずく。
「そうね。では、図工担当の先生に聞いてみようか。今すぐ呼んでくるわ」
待っている間、ぼくらは他の手がかりへ。
2)ほこりの筋:どの箱が動いた?
ぼくは床の筋を指さし、先生に確認する。
「この筋、昨日か今日にできた感じですか? それとも前から?」
先生はしゃがんで見て、首をかしげた。
「前からあったかは…覚えてないけど、棚の前はよく通るから、こんなにはっきりした筋は最近かも」
ぼくは筋の終わりを見に行きたいけれど、走らない。備品庫は狭いし、物が倒れたら危ない。
相棒が通路をあけるように少し横へよけてくれて、ぼくは筋の先を目で追う。
筋は、別の棚の足元で止まっている。そこには「体育」と書かれたラベルの箱が積まれていた。
そして、棚の一番下に、同じ形の透明箱が一つだけ置かれている。
相棒が目を細める。
「ねえ、あそこにも同じ箱ある。図工の箱とサイズが似てる」
先生が確認する。
「体育の棚に同じ箱?…あら、本当ね」
箱は透明で、中身は…丸いものがいっぱい。
よく見ると、体育で使う“マーカーコーン”(小さい目印の円盤)だった。
ぼくは思った。
同じ形の箱が、図工にも体育にもある。
これは、取り違えが起きやすい条件だ。
3)箱の置き間違い:中身を見て照合
先生の許可を得て、ぼくらは「触らずに」中身を目で確認することにした。
透明箱は、見えるのが強い。
相棒が、図工棚の「パレット」ラベルの箱を三つ、順番に見比べる。
- 箱A:パレットが入っている
- 箱B:パレットが入っている
- 箱C:筆洗いが入っている(ラベルは“パレット”)
「つまり、ラベルと中身が一致してない箱がある」
相棒の声が落ち着いているのが、なんだか安心だった。
次に体育棚の下の箱。
中身はマーカーコーン。ラベルは…“コーン”ではなく、なんと「パレット」と書かれた紙が、上から貼られているように見えた。
相棒が先生に確認する。
「先生、このラベル、二重になってませんか?」
先生が近づいて目をこらす。
「ほんとだ。下に別の文字がある。『コーン』って…書いてあるわ!」
“ラベルのずれ”が手がかりである理由がここで分かる。
ラベルが貼り直された形跡がある=上から別のラベルを貼った可能性がある。
4)赤ひげ:青い足あと風スタンプの正体
最後に、目立つ青い足あと。
ぼくらは怖がるのではなく、正体を確かめる質問を使う。
ぼくが先生に聞く。
「先生、この青い跡って、何の授業で使いますか?」
先生は笑って答えた。
「あ、それね。体育で使う“スタンプ”よ。床に直接じゃなくて、マットや紙に押すこともあるけど、今日は体育の先生が“目印用”に使ったのかも」
ちょうどそこへ、体育の先生が通りかかった。先生が声をかける。
「体育の先生! この青い跡、今日使いました?」
体育の先生は、あっさりうなずいた。
「使った使った。低学年の“ステップ練習”でね。足の位置が分かるようにスタンプ押したんだ。片づけの時、うっかり一つ落としたかも」
[赤ひげ(誤った手がかり)判明:体育スタンプの跡]
目立つから怪しく見えたけれど、授業の道具として説明できる。事件とは関係なかった。
これで、余計な心配がひとつ消えた。
5)聞き取り:いつ、だれが「その棚」を触った?
先生が連れてきてくれた図工担当の先生にも、ぼくらは“責めない聞き方”で質問した。
相棒が言う。
「先生、ラベルを貼り直した覚えはありますか? もしあれば、いつ頃、どんな理由で?」
図工の先生は少し驚いた顔をして、それから思い出したように言った。
「あ、貼り直したかも。先週、箱のラベルがはがれかけていてね。急いで貼ったの。…でも、上から貼ったか、貼り替えたか、そこまでは自信がないな」
ぼくが続ける。
「箱を別の場所に移動しましたか?」
「うーん、四年生の授業で一度、箱をまとめて机の横へ運んだ。そのあと戻してもらったと思う」
“戻してもらった”。
ここが大事だ。
ぼくらは、次の段階へ行けるだけの事実が集まった。
排除 ――「ありそう」でも証拠がない道を消していく
集めた事実を並べる。
- 図工棚の“パレット”ラベルの箱のうち一つは中身が筆洗い(ラベル不一致)
- ラベルがずれている/二重になっている箱がある(貼り直しの可能性)
- ほこりの筋が体育棚の近くまで伸びている(箱が動いた可能性)
- 体育棚にも図工棚にも“同じ形の透明箱”がある(取り違えが起きやすい)
- 青い足あとは体育スタンプで説明できる(赤ひげ)
- 図工の授業で箱を運び、児童が戻したことがある(善意の戻し間違いの可能性)
この時点で、仮説を整理する。
- わざと混ぜた(いたずら)
→ それを示す証拠がない。ほこりの筋やラベルのずれは、普通の片づけでも起こる。いったん保留。
- ラベルの貼り間違い/貼り替え
→ 二重ラベルがある、ずれがある。あり得る。
- 箱が移動したときに取り違え
→ ほこりの筋、同じ形の箱が複数ある。かなりあり得る。
- 親切に戻したが棚を間違えた
→ 「児童が戻した」事実と一致。とてもあり得る。
- わざと混ぜた(いたずら)
ぼくは、ほこりの筋の終点の体育棚の箱を見て、思った。
もし図工の“パレット”箱が体育棚へまぎれ、体育の箱が図工棚へ戻されたら…中身が混ざる。
つまり、入れ替わった可能性が高い。
相棒が、先生に提案した。
「箱の“本当の所属”を、ラベルじゃなくて中身でいったん整理しませんか? その上で、ラベルを正しく貼り直す」
先生は頷いた。
「いいわ。安全のため、重いものは先生が持つね」
ぼくらは、いよいよ結論へ。
結論 ――箱は犯人じゃなく、そっくりさんが作った勘違い
先生たちと一緒に、棚から箱を一つずつ出し、透明越しに中身を確認して、机の上に“図工”と“体育”で分けて並べた。
(運ぶときは必ず先生が見守り。ぼくらは無理に持たない。)
すると、見えてきた。
- 図工のはずの棚に、体育のマーカーコーン箱が一つ入っていた
- 体育の棚に、図工の筆洗い箱が一つ入っていた
- さらに、体育棚の箱には「コーン」の上に「パレット」が貼られていて、逆も起きていた
つまり――
同じ形の透明箱を使っていたせいで、戻すときに“ラベルだけ”を頼りにして取り違えた。
しかもラベルがはがれかけていて、上から貼ったことで、余計に混乱した。
先生が、みんなに向けて言った。
「だれかが悪いわけじゃないわね。形が同じで、ラベルも途中で変わっていたら、間違えやすいもの」
図工の先生も笑った。
「私も急いで貼ってしまったから、分かりづらくしちゃったね」
体育の先生が、青いスタンプを持ち上げて言う。
「足あとでびっくりさせたのは私か。すまんすまん。これは犯人じゃなくて、ただの目印だ」
みんなが少し笑って、空気がやわらかくなった。
最後に先生は、解決を“次につなげる”形にした。
- ラベルを貼り直す(上から貼らず、古いラベルをはがしてから)
- 図工はラベルを緑、体育はラベルを青など、色を変える
- 同じ形の箱でも、角に色テープを巻いて区別する
相棒が、ぼくに小さく言った。
「観察で見つけた“ずれ”が、最後まで役に立ったね」
ぼくは、ほこりの筋を思い出しながらうなずいた。
「道は、床にも残るんだな」
備品庫の灯りは、さっきより明るく感じた。
暗い場所が明るくなったんじゃない。
“分からない”が“分かった”に変わったからだ。
こうして、備品庫の謎は、だれも責めないまま、すっきり片づいた。
科学みたいに派手な実験はしていない。
でも、観察して、仮説を出して、確かめて、消して、まとめた。
それが、ぼくらの探偵科学だった。
探偵ノート
思考レッスン:仮説は一つに決めず、複数出そう
「これにちがいない!」と最初に決めてしまうと、他の可能性が見えなくなる。
今回みたいに、
- ラベルの問題かも
- 移動の取り違えかも
- 親切な戻し間違いかも
…といくつか仮説を用意して、証拠でしぼっていくと、だれかを疑いすぎずに解決できる。
対話型質問(考えて答えてみよう)
- ラベルのずれは、どうして「手がかり」になったの?(ずれていると何が起こりやすい?)
- ほこりの筋を見て、どんな仮説が強くなった? 逆に弱くなった仮説はどれ?
- 青い足あとが“赤ひげ”だと分かった決め手は何だった?
自宅課題(安全):そっくり物の「取り違え防止」作戦
家にある、似た入れ物(同じサイズの箱、同じ色のケースなど)を2つ選んで、取り違えない工夫を1つ考えてみよう。
例:色テープを1本貼る/ラベルを大きく書く/置き場所を分ける。
できたら、家の人に「どっちがどっち?」クイズを出して、工夫が役立つか確かめてみよう(危ない場所や高い棚はさけてね)。


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