
廊下の窓から、午後の光が斜めに差しこんでいた。
光の筋の中を、ちいさなホコリがキラキラ舞っている。まるで映画のスローモーションみたいに。
「カチャン」
だれかがロッカーのとびらを閉めた音が、学級のざわめきのすき間をすべってきた。
その音のあと、ほんの一瞬だけ――妙に静かになった気がした。
ぼくは、学級ロッカー前で立ち止まった。となりには、いつもいっしょにいる相棒がいる。相棒は、目がいい。ぼくは、音に敏感だ。ふたりとも、なぜか「気になる」が見つかると放っておけない。
そこへ、教室の中から、あわてた声が飛んできた。
「ねえ! ぼくの(わたしの)筆箱がない!」
声の主は、ついさっきまでロッカーの前で、ノートと教科書を入れかえていた子だった。顔が青い、というより、びっくりして赤くなっている。
「え、さっきここで出してたよね?」と相棒が言う。
「うん。お昼のあと…たしかにここで…」その子はロッカーの中を何度も見て、ランドセルのポケットまで探しはじめた。
筆箱。消えた。
たった一つの小さな箱なのに、そこにあるはずのものがないだけで、世界の形がちょっとだけ変わって見える。
ぼくと相棒は、目を合わせた。
「やる?」
「うん。だれも困らない形でね。」
こうして、ぼくらの小さな事件が始まった。
観察 ――「ない」を「見える」に変える
まず、ぼくは深呼吸して、いきなり探さないことにした。
消えたものを追いかける前に、「いまここにあるもの」を集める。探偵の基本だ。
相棒が、ロッカーの前の床にしゃがみこんだ。ぼくもつられてしゃがむ。床はつるつる…のはずなのに、よく見ると、細い白い筋がのびていた。
相棒が指でちょん、とさわって、指先を見せる。
白い粉がついていた。
[手がかり1:ロッカー床の白い粉の筋]
相棒は、そっと指をこすり合わせて確かめる。粉は軽くて、ふわっと消える。
「チョークの粉っぽいね。黒板のところのと同じ感じ」
ぼくは別のところに目をやった。ロッカーのふち、金属の角のところ。そこに、うすく光るものがひっかかっている。
相棒がそれをピンセットみたいに指先でつまみ、そっと引っぱった。
小さな、透明なシールの切れはし。しかも、うっすらと文字の一部が残っている。
[手がかり2:名札シールの切れ端]
相棒は「これ、筆箱に貼る“名前シール”のやつかも」と言って、落とさないように手のひらにのせた。
(筆箱って、名前シール貼ってる子、多い。)
ぼくは耳をすませた。さっきの「カチャン」のあと、頭の中で引っかかっている音がある。
――ころころ。
金属じゃない。消しゴムでもない。もっと軽い、プラスチックみたいな。
「ねえ、さっきロッカーのあたりで…ころころって聞こえなかった?」
ぼくが言うと、相棒が少し目を見開いた。
[手がかり3:ころころ転がる音の記憶]
相棒は、教室の方を見て、当番の子たちの動きも確認するみたいに視線を動かした。
「聞いたかも。あれ、筆箱が転がった音っぽい」
そしてもう一つ。ロッカーの前に、ちょっと目立つものがあった。
床に、茶色い「足あと」みたいな形。
土のついた運動靴のあと。なんだか、いかにも怪しい。
「だれかが持っていった?」と、その筆箱の持ち主が不安そうに言う。
相棒は、その足あとをじっと見て、言った。
「これは…怪しいけど、まだ決めない。赤ひげかもしれない」
[赤ひげ(誤った手がかり):泥の足あと]
いかにも“犯人の足あと”っぽい。けれど、学校には泥の足あとができる理由が、いくらでもある。
観察で集まったのは、これだけじゃない。
・ロッカーのとびらは閉まっている
・近くに落ちている筆記具はない
・筆箱の持ち主は「ここで出した」と言っている
・休み時間のあと、ちょうど掃除用具を出し入れしたクラスがあった(ぼくの記憶)
「よし。次は、考える番だ」
仮説 ――筆箱は「どこへ行ける」?
ぼくらはロッカーの前に立ったまま、頭の中で“起こりうること”を並べた。
犯人探しじゃない。筆箱が移動できる道を考える。
相棒が指を折りながら言う。
「仮説は3つくらいにしよう。多すぎると迷子になる」
1つ目。だれかが間違えて持っていった。似た筆箱、同じ色、同じ形。よくある。
2つ目。落ちて転がって、見えないところに入った。机の下、ロッカーのすき間、棚の奥。
3つ目。だれかが“落とし物”として安全な場所に移した。善意で片づけた可能性。
そして、みんなが心配するやつ。
4つ目。だれかがわざと隠した/持ち去った。
筆箱の持ち主が、唇をかんで言う。
「…ぼく、だれかに嫌われてるのかな」
その声が、紙みたいに薄く震えた。
ぼくはあわてて首をふった。
「まだ何も決まってない。いちばん最後まで取っておこう。まずは“筆箱が勝手に動ける道”から」
相棒も、うなずく。
「白い粉の筋と、ころころって音。これは“転がった”仮説に近いよね」
筆箱は四角いけど、床がつるつるなら、少しのはずみで動く。
しかも、ロッカーの下には、ちょっとした“影”ができる。
「検証しよう。順番に」
検証/確認 ――確かめるのは「思い込み」じゃなく「事実」

1)白い粉の筋をたどる
相棒は、白い粉の筋を目で追った。筋は、ロッカー前から少し斜めにのびて、となりのロッカーの下あたりで薄くなっている。
相棒が小さな紙を出した。プリントの切れはしだ。
床をこすらないように、そっと粉の上をなでる。紙の端に白い粉がついた。
「これ、黒板の下に落ちてる粉と比べていい?」
相棒が先生に聞きに行く…のではなく、教室の黒板消しクリーナーの近くまで行って、床の隅の粉を指先でほんの少し取った(もちろん、散らかさない程度に)。
指先で比べる。質感が似ている。
「うん、同じ系統の粉だと思う。つまり――筆箱がここを通ったとき、粉を引っぱって筋ができた可能性がある」
“粉が手がかりである理由”がここで見える。
粉は勝手に長い筋になりにくい。何かがこすれて動いたから、筋になる。
2)名札シールの切れ端を「照合」する
次に、透明シールの切れ端。相棒は持ち主に尋ねた。
「筆箱に名前シール、貼ってる?」
「貼ってる! 透明のやつ!」
持ち主は、急に顔が明るくなったけど、すぐにまた不安そうになる。
「でも…切れ端がここにあるってことは…ここで取れたってことだよね?」
相棒はうなずきながらも、言い方を選んだ。
「“ここに来た”可能性は上がる。でも“だれかが取った”とは限らない。角に引っかかって、勝手にちぎれることもある」
そして相棒は、ロッカーの角を指でなぞった。ほんの少しだけ、出っぱりがある。
「ほら。ここ、シールの端が引っかかりやすい」
“シールが手がかりである理由”が行動で見える。
実際に引っかかる場所がある=筆箱が接触した可能性が高い。
3)「ころころ音」の再現
ぼくは、耳の記憶を事実に近づけたくて、同じ形っぽいものを探した。
相棒が自分の筆箱を持ってきて、持ち主の許可も得て、床にそっと置く。
「転がすよ。人がいない方向に」
相棒は、軽く押した。筆箱は…ころ、ころ、と短く転がって、止まった。
ぼくの耳の中の音と、かなり近い。
“音の記憶が手がかりである理由”がここで見える。
同じ種類の物が同じ音を出すなら、「ころころ」を筆箱と結びつける根拠が増える。
4)赤ひげの「泥の足あと」を確かめる
最後に、いかにも怪しい泥の足あと。
ぼくらは“犯人の足あと”と決めつけないで、まず質問した。
相棒が近くの子に聞く。
「今日、体育あった?」
「うん! 校庭、ちょっとぬれてた!」
さらに、足あとの形を見ると、校庭用の運動靴っぽい溝。
それに、足あとがロッカーの前だけじゃなく、廊下の別のところにも点々と続いている。
「この足あと、筆箱とは関係ない可能性が高い」
相棒が言うと、持ち主も少し肩の力が抜けた。
[赤ひげ(誤った手がかり)確定:泥の足あと]
怪しく見えるけど、学校生活の普通の出来事(体育)で説明できる。
排除 ――“ありそう”を消して、道をせまくする
検証して分かったことをもとに、仮説を整理する。
- 泥の足あとは体育で説明できる → 「だれかがこっそり来た証拠」ではない
- 白い粉の筋は“何かが床を動いた”可能性が高い → 「転がった」仮説が強くなる
- 名札シールの切れ端はロッカー角でちぎれそう → 「この場所で筆箱が接触した」可能性が高い
- ころころ音は筆箱で再現できた → 「転がった」仮説がさらに強い
つまり、いちばん怖い仮説(わざと隠した/持ち去った)は、今のところ証拠がない。
逆に、転がって見えないところへ行った、または落とし物として移された、が残る。
相棒がロッカーの下をのぞきこんだ。
でも、暗くて見えにくい。手を入れるのは、ほこりもあるし、無理にやると危ない。
ぼくは思い出した。
「掃除のとき、ほうきでここ、さーってやるよね。もし筆箱が床にあったら…」
相棒がパッと顔を上げる。
「…押されて、転がる!」
白い粉の筋が、となりのロッカーの下で薄くなっているのも、説明できる。
そこに入りこんだら、もう筋は続かない。
そして、もう一つの“移された”仮説。
もしだれかが見つけて、先生に渡したり、落とし物かごへ入れたりしたなら、ここには残らない。
「よし。二つの道を同時に追おう」
相棒が言う。
「ぼくはロッカー下の“入った先”を探す。君は落とし物の場所を確認して」
ぼくはうなずいて、小走りで教室のすみにある“落とし物箱”のところへ向かった。
(勝手にあさらない。先生か当番の子に「見てもいい?」って一言言ってから。)
「落とし物、筆箱ある?」
当番の子が箱を見て、首をかしげる。
「えーと…消しゴムと、ハンカチと…あ、筆箱っぽいのある!」
ぼくの胸が、少しだけドキンと鳴った。
でも、箱から出てきたのは、違う色の筆箱だった。残念。
「でも、今ここに“筆箱が入る”ことはあるんだね」
ぼくは、情報として持ち帰ることにした。
そのころ相棒は、ロッカーのとなり、さらにそのとなりまで、床の見え方を変えながらのぞいていた。
そして、声をひそめて呼んだ。
「いた。…たぶん」
結論 ――消えた筆箱は、悪者じゃなく“すべり”のせい
ぼくが戻ると、相棒はロッカーの前で、手のひらを床にぴたっとつけていた。
まるで、床の温度を測るみたいに。
「ここ、ロッカーの下に“段差”がある。掃除で押されると、そこへ引っかかって止まる」
相棒は、細い定規を借りてきて、ロッカー下へそっと差し入れた。
カツン。
なにかに当たる音。
相棒が定規をほんの少し動かすと、奥から、かすかな「ころ…」という音がした。
ぼくの耳が、それを逃さない。
「やっぱり!」
先生に一言言ってから、長い棒(安全なもの)を借りて、ロッカーを動かさない範囲で、奥のものを手前に寄せる。
すると――すべって出てきた。
見覚えのある、あの筆箱。
角に、透明な名前シールの端が少しめくれている。ロッカーの角に引っかかったみたいに。
持ち主が両手で受け取って、目を丸くした。
「うそ…ほんとにあった!」
相棒が床の白い粉の筋を指さす。
「この筋、筆箱がここを通って、あっちの下に入ったって考えるとぴったり。ころころって音も一致。シールがちぎれたのも角のせい」
持ち主は筆箱をぎゅっと抱えて、ほっと息をついた。
「じゃあ、だれも盗んでない…?」
ぼくはうなずいた。
「うん。たぶん、休み時間のあとに荷物入れ替えて、ちょっと床に置いて…それで掃除のほうきが当たったんだと思う。筆箱が悪いわけでも、だれかが悪いわけでもない」
先生も近づいてきて、やさしく言った。
「見つかってよかったね。次からは、床に置くと転がりやすいから、いったん棚の上に置こうか」
持ち主は、顔を赤くして笑った。
「うん。…心配してくれてありがとう」
廊下の光の筋は、さっきより少しだけ短くなっていた。
事件は、映画みたいに派手じゃない。だけど、胸の中のもやもやが晴れていく感じは、スクリーンよりずっと本物だった。
相棒がぼくに小さく言った。
「“こわい仮説”は、証拠が出るまで棚に置く。今日もできたね」
ぼくは、うなずいた。
「次は、もっと早く粉に気づけるかも」
学級ロッカー前の小さな失踪事件は、だれも責めないまま、静かに終わった。
探偵ノート
(1) 思考レッスン:推測と事実を分けよう
- 事実:目で見た・耳で聞いた・さわって確かめた「そのまま」の情報。
例)床に白い粉の筋があった/ころころという音がした/ロッカーの角にシールが引っかかりやすかった。 - 推測:事実をもとに「たぶんこうだ」と考えたこと。
例)筆箱が転がったかもしれない/掃除のほうきが当たったかもしれない。
探偵は、推測をしていい。でも、推測を事実みたいに言わない。だから、だれも傷つけにくい。
(2) 対話型質問(考えて答えてみよう)
- 白い粉の筋は、どうして「手がかり」になったの?(ただの粉と何が違った?)
- 泥の足あとは、最初は怪しく見えたのに、どうして「赤ひげ」だと分かった?
- もし筆箱が見つからなかったら、次にどこを、どんな順番で確かめる?
(3) 家でできる小さな課題(安全)
「事実メモ探偵」をやってみよう。
家の中で“なくなったと思った物”(リモコン、消しゴム、靴下など)を1つ選んで、探す前にメモを書く。
- 事実:最後に見た場所/見た時間/そのときしていたこと(3つ書く)
- 推測:どこにありそうか(2つ書く)
そのあと、探して見つかったら、どの推測が当たったか/外れたかも書いてみよう。
※危ない場所(高い棚の上、コンセント周り、刃物の近く)は大人といっしょに。

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